どうも、あの人を見ているといらいらする。ぞわっと落ち着かない気持ちになる。
そういった気持ちを感じたならば、なぜ自分はそう感じるのか考えてみる。それは、自分の内側にある隠れた欲望を見せてくれるものになる。
あの人が好き勝手にしていることが許せないなら、私も好き勝手したいなと思っているのかもしれない。わたしは好き勝手したいけれど、できない。ずるいな。その気持ちが、あの人を許せない気持ちにつながっていく。
突然、出張に出かけておみやげも買ってこない。と思うなら、私はおみやげを買ってきてほしかったのかもしれない。もしかしたら、私には事情を話してから出かけて欲しいと思っていたのかもしれない。
そう思ってみたら、いらいらしたりぞわっとしたりするときは、自分の欲望を見つけるチャンスだ。自分の内側に押さえつけてある欲望があるから、その欲望を実現させている様子を見て心が騒ぐ。
誰かに対していらっとするモノコト、ぞわっとしたモノコトを、メモしてみよう。
メモに出てきたことたちは、自分自身がすることを禁止したモノコトたち。そのモノコトたちを、やってみていいかな。どれくらいまでだったら、そのモノコトについて考えてもいいかな、と自分自身に聞いてみる。
他人にいらいらするふりをして、本当はそうできない自分自身を責めているかもしれない。だから、そっと、自分自身に聞いてみる。やってみたいかなと感じたら、そのときは自分もやってみる。一度は試してみよう。そうすれば、自分自身に少し近づく。
ないのと、在るのとは、裏と表。切り離すことはできない。
紙の裏と表は、切り離せない。どちらも、同時にそこにある。裏から見ればそちらが裏になり、表から見ればそちらが表。同じひとつの紙をくるくると向きを変えてみているだけ。
だから、いらっとする相手のことも、くるくる向きを変えれば、隠してあった自分自身、気づかなかった(気づきたくなかった?)自分自身が見えてくる。