自分の中に違和感を覚えたり、問題が出てきたときに。その違和感や問題に名前がつくと、ちょっと安心できる。
実態が見えない何かに名前がつくと、そこへの対処の仕方がわかりそうで安心できる。
夜にであうおばけと痴漢の差くらいは安心感が違う。おばけは対処が分からず怖いけれど、痴漢は警察を呼ぼうかとか対策が立てられる分こわさが減るように思う(痴漢もこわいし、会いたくないけどね)。
こころの不具合にも名前(病名や症状名など)がつくと安心できる。
病名などがついて安心できるのは、これまで、症状だけでとらえどころがないように思えたものを「病気」としてとらえられるようになるから。病名がつくくらいだから、似た症状で困っている人も、自分だけではないだろうと思える。
じぶん自身、うつ病だと診断されて少しだけほっとした経験がある。
どれだけ頑張っても、朝、体を起こせない。重力が何倍にもなってしまったような体の重さ。
夕方になったら、勝手に涙が出てくる、異様に悲しくなる。
走ってくる車の列を眺めながら、飛び込んだら楽になるかなと、ふと思う。
自分は、もう。身体も頭もどうしようもなくなってると絶望したけれど……それがすべて「うつ病」のせいだった。
「病気のせいだから仕方がない」には、ふたつの段階がある
「~のせいだから仕方がない」で落ちつく、自分責めをやめる段階。
そこを乗り越えた後には「 ~のせいだから」を言い訳にせず挑戦を始める段階。
ひとつめの段階は、自分責めをやめる段階。
これまで、じぶんの身体に起きた症状を理由に、自分責めを続けてきた。もうだめだ、と絶望もした。
なあんだ。
あの具合の悪さは、わたし自身がおかしいから起きていたことではなくて、病気のせいだったんだ。
違和感や問題は、病気のせいで出てくるものだった。
どれだけ頑張っても、朝、体を起こせない。重力が何倍にもなってしまったような体の重さのも「病気のせいだから仕方がない」。
夕方になったら、勝手に涙が出てくる、異様に悲しくなるのも「病気のせいだから仕方がない」。
走ってくる車の列を眺めながら、飛び込んだら楽になるかなと、ふと思うのも 「病気のせいだから仕方がない」。
全部が 「病気のせいだから仕方がない」。
病気だったのだから、少しずつつきあい方を覚えていけば日常に戻っていける。
それを信じて、とにかく生きる。生きることに執着を持つ。
主治医の先生やカウンセラーさん、心理療法士さんなど、いろいろな人に支えてもらいながら、日常の中に戻ってきた。
ふたつめの段階は、今の自分にやれる方法を探っていく段階
「病気のせいだから仕方がない」と考えて、自分の生きかたの続く道から外れてうずくまってしまうこともある。 病気を理由に、自分のやりたいことを閉ざそうとしたり、進みたい道をあきらめたりすることもある。
「病気のせいで〇〇できません(したくありません)」
病気を理由にして、挑戦したい自分の気持ちを隠してしまうこともあった。言い訳に病気を使うことがあった。
確かに、病気や違和感、問題を抱えている(と感じている)人は、病気や違和感などを感じていない人のほとんどがうまくやれる方法を使うことが難しい。
それでも。より、一層。自分らしい方法、自分にやれるやり方を探っていくことで、やれることもある。
生きる上で感じられるバイオリズムの波は、病気や問題があろうとなかろうと、同じように皆が持っているもの。大きさやタイミングが一人ずつ違っているだけ。
だから、自分にやれる方法やじぶんにあった方法を探り出せば、少しずつ、自分の出来ることは広がっていく。
病気などの名前がつくと安心できるけれど、その病気などの名前に隠れて自分をあきらめてしまうのは少し違う。もったいない。
~のせい。で気持ちが落ち着いたら、
~のせい。にしてしまわず挑戦を始める。
自分を責めることをやめて、挑戦したい自分をあきらめない。じぶんにあったやり方を探る。
そして。
今の自分にやれる方法を探りながら、とにかく挑戦してみること。気づいたら日常の中に少しずつ戻れている。